じっくりと事を進め、急がず、確実に。これが当院のスタンスです。
じっくりと事を進め、急がず、確実に。これが当院のスタンスです。

2014.02.27更新

■2014/02/27 考えないと行けないのかな…
あたしらの仕事は、多分大工作業の側面が沢山あると思っています。だから、どうかと問われても、大工仕事以外表現しようがあるまいと、やはり思ってしまいます。

唯、身体のパーツを預かる以上、大工以外で、伝わりやすい表現があれば嬉しく思う事もあります。

さて、たまには臨床でのお話を。
口が開かない。噛むと痛い。顎が痛い。頸が***という患者がいた。
ナンチャッテスプリントと舌スポットの指導のお陰か、噛む(食事する)と痛みだけが残る。2回目のお話。
顎が下がらないからですよと、下がる体験をさせる。
口が開くじゃん。

ここまでは、臨床で烏合の如くワォワォと分かったような分からない事を語る必要もあるまい。と、格好良い事をほざいても意味もなさそうだった。で、考え治して生理学の反射機構を利用して説明が出来るようになってきた。

では、どうすれ効率よく治せる道筋を作れるか?多分、今、相当に悩んでいるのだろうな?そんな事を思う今日この頃です。

次の患者は、顎がロックするように、で、顎をずらしながら口をあける。で、頸が痛い。で、肩関節炎。いわゆる40肩・50肩って言う奴だ。で、顎はスポーツでの外傷から起きたようだ。(問診より)で歯を治療してから頸が痛くなってきた。前医に聞くと因果関係が無いと言われる。

ま、口を見て反射系から予測し、口のぶれて開く具合の変化を、確認する。
で、次に口と身体の関係(これは、今回は頸と肩の関係)の反射系を利用して確認。反射系を知れば、誰でも出来るような気もする。

でも、再び悩む。

では、どうすれ効率よく治せる道筋を作れるか?
唯、悩む。
もし、整形外科の先生とそんな話を少しでも出来たら、面白いのになって思う時もある。だって、もしかしたら新しい医療体系が出来るかもしれない、そんな気もする。

そんなロマンを想像する時もある。
見いだせたら、素敵だろうな。そんな力があるだろうか?
唯、迷う。

検査系を見いだせたら、何かが出来るだろうか?そんな事を、今一度悩みたくなっています。アホとか、己自らを茶化す事は、今回は出来ないかな?己に失望したくないし…

ま、そんな感じ。

さて、人には役回りがあるという説もある。そんな役回りが、あたしにも回ってくる事があるのだろうか?考えたく思うのです。

でも、この国には、ある役回りが決められているようです。

この国は、エビデンスは出される事は無いけれど、過去で悪い事をした(らしい)。
この国は、エビデンスを出す事は出来ないけれど、悪い国(らしい)。
この国は、エビデンスなど用意する必要はないけれど、一方的に謝罪を続けなければならない(らしい)
この国は、エビデンスという発想を持つ必要などなくて、事実を知ってはいけない(らしい)。
この国は、嘘を解釈上受け入れる訓練がいる(らしい)。

国を愛する心は、許されない。それが正しいと、本気で信じる人達がいる事が、心からアホ臭く思う。居丈高で、ビジネスする人に、失望している。

多分、この人種にはロマンより、既得権益が大事なのだろうな…
名誉より、ビジネスか…

あたしは、失望したくないから、考えたく思うのです。
さて、どうなる事やら。

おしまい。

 

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.26更新

■2014/02/26 測定か…
今日は寝よう。でも、測定は、必要だし、その手法は、考えていかないと行けないのだろうな…

ま、そんな事を思った。

仕方ない。
考える。

仕方ない。
考える事から、何かが見える事があるさと、酒かっくらって寝よう。

何をか?
CTを立体的に見える手法は無いかと、妄想し始めたって感じ。

おしまい

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.25更新

■2014/02/25 大工作業だけか?あっしらは?
“医療と広告?”の関係って、七面倒くさいと思う時があります。これって、真剣勝負のまねっこを、知らしめるぐらいで、よくネェ?

作る人たちがソコソコ出来れば、何とかなってしまうと書いてしまったのが、前回。でも、個人的には、臓腑に落ちない感覚を持っているのです、つまり形成外科的感覚では。と、ぼやいたのが前回。

で、何で?と、モヤモヤした時間を過ごしたものです。
形成外科の様な感覚と言う言葉を、ここでは安易に使っている物の、形成外科の本質を当然ながら知っている訳でもありません。只、再現するという歯科の大工の性質に対して迷う訳です。

多分、“ピーン”と来る言葉なのか、意味する表現にどうしてもあたしの場合、探索出来なかった。そんな言い方が適切になるのでしょうか?

その一方で、「保険で何でもできるという」、あたし自身は、どうも草臥れた感覚も持つのですが、そんな思想があたしらの業界にはあります。ここでも、矛盾を感じる訳です。

では、技術の体系化が進むという事自体が、この紹介した思想には受け入れられる隙間があるように思えないのです。あたしは何れも所有した経験が無いので、利便性等は一切分かりませんが、例えるなら、ウォークマンが、スマホに変わり、片方は既に過去の遺物になり、片方は今の旬である。技術が進化し、新しい表現された形が生れる。そんな物と思うのです。

何でもできるという考えのベースは、十分噛めるではないか!!だから、自費と差は無いのだ。と言う所が、その本質ベースにあるのでは?っと、思うのです。
この考えであれば、美容的な発想と言う表現を使う事を了解いただきたいのですが、見た目を良くする事も、実は安直に考えられる事になるのではないか、本質は同義である気がしてならないのです。違いは、お金の差と銀歯か白い歯の差?になってしまうのか、相当に悩む訳です。これは、物の性状に対する議論で、ピーンと来る物が根にあるとは思えない訳です。

もし、何でもできると言う発想は、歯科医の力を相当に劣化させる気もする訳です。だからと言って、自らが完璧である訳でもありません。完璧であれば、何かを見いだせるでしょうに、不完全だから、また、悩む訳です。

というのは、安易な処置により、ご苦労を背負いこむ患者もいる。この事実がある限り(当院だって、そんな人生の宿題を持たれた方々とのお付き合いが無い訳では無いです)、何でもできると言う発想は、受け入れる事は出来ないと結論を、あたし自身は持たざるを得なかったのです。

で、そのご苦労の宿題について考えると、一言で言えば、“噛めない”という所が、掘り下げて掘り下げて行く運動を続けると、どうもそんな感覚と統一の傾向がある気がしてならなくなる訳です。でも、噛み合わせという学術定義は、ない模様。

誤解をなきように一つ触れておきますが、審美には当然、審美性を維持する為の形成法、印象法等のエビデンスはあります。でも、これは、見方を変えれば、大工作業を成功させる為の、方法論の正当性。もっと荒い言い方をすれば、作業説明書はあります。知らない?不勉強の術者もいるでしょうし、座学では専門家でも、具現が出来ない術者もいるかもしれません。

でも、医療と言う立場である限り、何かが足りないと葛藤する訳です。一個一個の真剣勝負は、どの仕事であれ意識世界の中で大差が生れる訳ではないと思うのです。そこで、医療と言う立場を取るならば、違う!何かが違うと思うようになる訳です。

機能性…

ここに医療の一つの隠されたテーマがあるのではないか?そんな事が脳裏に過ります。

じゃあ、機能の意味と、機能を具現化させると言う意味は?これが、多分、大事なキーワードと思いを侍らせるようになる訳です。一つの答えは、生理学と言う学問で、反射という場面に何かがあるのでは?と考え持つようになる訳です。
これは、あたしの場合。

身体と歯は関係ないと言う考え方があります。実際、どうなのでしょう?
噛み合わせがおかしくなると、身体がおかしくなっていると言う事象があります。実際、どうなのでしょう?

美しい笑顔は、歯を変える事です。きっと、そうなのでしょう?
でも、歯の裏が分厚過ぎて、苦しいと訴える患者がいる事象もあります。実際、どうなのでしょう?

歯科医の仕事が、単純に大工作業であれば、訴える患者の報告は無い事が妥当です。
日本の過去が全て悪ならば、あたしらの御先祖様は全員犯罪人と言う評価が妥当です。

でも、おかしいと疑問を持つ事は、どの評価を受けるのでしょうか?
おかしい事をおかしいと言うと…

“人は盗人火は消忘”にこしたことは無いようです。

右傾化を批判する事は、良い事で、その基本路線は日本流の左巻きアジアのプロパガンダ?と錯覚を覚えるこの頃です。

“人の過ち我が仕合せ”精神に引け目を持たされるのでなく、段々“人の振り見て我が振り直せ”に、意識の変化を持つにつれ、もういい加減靄の安直魔術には近寄らなくなりつつあるようです。

同時に、“人には飽かぬが病に飽く”そんな日々でもあります。
でも、信じないと行けないのかなって、思っています。
何を?
それを、時々考えるようにしています。

人の身体は素晴らしい。その前でいつもたじろぐ。

おしまい。

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.24更新

■2014/02/24 ジャマな発想
“医療と広告?”の関係って、七面倒くさいと思う時があります。これって、真剣勝負に、水差す物の存在ぽい奴。

自己実現、自己決定における主体と主体性と言う言葉遊びが前回までのお話。そうでしたっけ?

ところが、もう一方で、ごまかしと言うのでしょうか?fakeとでも言えば良いのでしょうか?そんな世界までも含め、あたかも過大?というリアリティ-までをも若した限りなく広告っぽい世界観もネット内といえど、存在するようです。

人体は神が作りし気高い存在と文学的表現で礼さんする事も、精巧で複合な組織と科学性に忠実且つ端的に述べる事は許されるかもしれません。

例えば、症例の写真をがっつり載せられて、より患者にイメージがしやすい環境を作ろうとする工夫。

で、実際どうか知りませんが、美容の世界では、どうやら規制が入るようですね。あたしらの業界は、どうなのでしょう?
元々患者さまと言う呼び方に違和感を覚えていた所に、“えっ?”と、驚愕な事実を知ります。この業界の一部の方々におかれては、そんな所もかっ飛ばしてお客様って、表現まで用いるようです。あたしとしては、相当な衝撃と、感動した所が、一部の方々の表現だと思いますが、ありました。

多分、歯科で言うならば審美と言うジャンルがこの世界と対比されるべき物なのかなって考えた事があります。と、同時に違和感も覚えます。どこが?と言われると、整理がつかなかったのですが、多分、こんな感じでしょうか?

多分、審美の世界にも形成外科的感覚と言えば良いのでしょうか?そんな世界観が背景にある審美。
次に、多分、美容と言う世界観と結構近い感覚の審美の世界と言うのでしょうか?

あたし個人は前者の方が、相当に受け入れやすい感覚でした。

ま、(器質)障害の治療が、大工作業が基本の歯科治療と心得ています。とすれば、本人及び、他人の不快感を減少せしめる事を目的とするという思想は受け入れやすい物でした。ですが、感覚的には相当な拒絶感が、実はいまだあります。

要求される技術水準は、正直、読まれている方には誤解を与えるかもしれませんが、保険で行うより、相当に難しいと良識を持ちます。
唯、大工作業故に、技工士という物作りがそれなりに上手いパートナーを勝ち得ると、そこまでの技術性が無くても、実は、審美的にはそれなりの雰囲気が出る事も、また、頭痛い所だったりします。

見た目の再現性と言う意味では、材料学が進み、技工士という広範に作り手のすそ野が広がった現在、結構、差異は素人目には分かりにくくなって来ているのかもしれません。えげつない言い方が許されるならば、見た目という雰囲気では大差などあり得ないのかもしれません。

歯科医の少なかったそれなりの時代、何でも治せて(?)何でもこなせないと行けなかった時代の名残なのでしょうか?それとも、日本人が国民性として器用な証拠なのでしょうか?それなりの物が出来てしまうのです。

ところで、70年代、一時電動歯ブラシが海外から国内に入りました。流行りかけて、廃れました。

理由?

簡単。

海外性のコンセプトを読まず、機能の持つ意味を理解せず。こんな性能を日本のメーカーは作った訳です。

普段使っている歯ブラシを、唯、受け入れ口に差し込んで、歯ブラシが無造作に揺れる。手で磨く方が、はるかに効率よく汚れが落ちる事を、ユーザーにあっさり見抜かれ、信頼を失います。

今は音波とか、超音波とかそういった機能が付く事で、手動磨きよりはるかに優位になるよう工夫されています。信頼の復旧に30年以上かけ、ようやく普及していく訳です。

ね、日本人は、結構、器用でしょ?

んだ、んだと、思ったご自身。例えば、ヨーロッパではタイ製の白い歯も輸出されているのよ。理由。技工料金が安いから。

と、考えると、資本主義って凄いと言う方が、正しい気がします。

話を戻して、白い歯って、唯、見た目の再現性が勝負なの?じゃあ、口元の美しさのコンプレックスを用いて、白い歯にするのと、結果、何ら大差ないじゃない?って、言う話になりませんか?

形成外科的感覚の方が受け入れやすいとあたしが思った(過去形)理由と、限界のお話でした。

根拠として、いまいちだから…が、理由なのでしょうね。

あ、でも、この国の物事を決める人も、何かを伝える人も、根拠ってあまり興味が無い様だからちょうど良いのかもしれませんね。

河野談話に根拠なし。でも、受け入れないと行けない。(ほんとかよ)
何か、変!と、書くのはいつものパターン。

だから…

歴史認識は捏造から、始まるのです。

いいですね~。

おしまい。

 

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.22更新

■2014/02/22 言葉は、難しいのだ
“医療と広告?”の関係って、七面倒くさいと思う時があります。これって、実益に対する心境の部分。

ところで、時代が変わったのか、業界用語でいえば、増患とか、集患と言う表現もある。かつてのように虫歯や歯周病に罹患する患者が減少し、歯科医の仕事自身が減少傾向に入って、結果報酬での上りが以前のように期待できなくなり、挙げくには歯学部自体が定員割れすら起こる状況にもなっている。で、お陰さまで虫歯や歯槽膿漏の患者の数を増やすことはできない。

一人当たりにかける診療時間を増やしても…質を上げる行為をしても、報酬は変わらない。ならば、質を向上させて、自費治療に移行してみるか…

イメージを向上させて、増患・集患をかけて存続を維持させるか…

クリニックに売りを作って、あるべき単価水準を下げ、自費治療を売るか…(それでも、保険報酬よりは上りが多い。)

と、広報的側面を多く導入して、自営業としての生き残りをかけるか…

広告ではなく、広報と言えば良いのでしょうか?例えるなら、“電話帳のビジュアル版?”のような物、動画で新しい表現法を用いる事も、ありなのかもしれない。これも、ネットと言う表現媒体で活用できる手法なのかもしれない。知って、感じて、併せて親近感を持って頂く。これなんかも、言い方を変えれば、医療と広告の規制とは一線を帰す方策なのかもしれない。

でも、多分、治療哲学と言えば良いのか、世界の潮流の“患者中心”という考えを知らずに、いたとしたらどうなるのだろう。仮に、お・も・て・な・し精神の延長での丁寧語から、患者さまと言う言い回しを選択する時、患者主体で物事を考えられるという思想は生まれないのだろうか?お客様精神と同列性からの思想形態は何が起きるのだろう?そんな事を、性格の悪いあたしは妙に考えたりもします。

気持ち良く迎えたい、安心して着て頂くという医療者側からの想いは、意図する物とは別に違う物を産み出す事は無いのだろうか?迎合とでも表現すれば良いのか、日和見的とでも表現すれば良いのか、そんなエネルギーが生まれる事はないのか、そんな事を想像したりします。

多分、主体と主体性では、持つエネルギーの始まりが違うから、結果が変わってしまう気がします。どうなのでしょう?

自覚や意思に基づいて行動し、作用を他に及ぼしたりするのが、主体の意味。
歯科のクリニックに通うと言う意思決定が、主体で行うのは当たり前の事として、歯科の知識が無い人間=患者が、患者さまに祭り上げられて何が出来るのだろう?そんな変な事を想像したりします。

自分の置かれている位置・状態を自覚と言う。あるいは、自分の価値・能力をはっきり知る事を自覚と言う。歯科医院を訪れる患者は、口の中の何かに自覚を持って、主体的に門を叩くが正しい日本語のような気がします。

だから、親しみを込める使い方としての“患者さん”と、業界で使われ出した、あたしにとっては違和感だらけの“患者さま”では、その持つ意味は相当に違う気がしてならないのです。

ところで、主体性とは、自主性・個性・アイデンティティ・自己実現・自己決定・本来性とほぼ同義に用いられている言い回しのようです。これらの言葉に共通する含意は,患者という立場で言い表すと、多分、こんな感じ。

“患者が外的か内的かは別に、何かの理由で,健康であることを妨げられている状態を克服して,認識のレベルでも行動のレベルでも,本来あるべき健康な状態に戻る事になる”多分、こんな感じ。

その為にも、情報を医療者と共有して、解決を図るが、あたしが考えた結果、あるべき姿と思う物。

言葉の意味って、実はとても大事だと思うし、使い方や定義づけが曖昧な日本語表現で広告でないあり方であろうとする事の方が、何か違和感、って感じる次第なのです。だって、診断には国語力が相当いるし、その診断に基づき、歯科医は技術を行使する物と、あたしは思っているので…その一連の流れを治療と言うのでは…あたしの独り相撲なのかな?

どうなのでしょう?

それとも、集団的自衛権は国際法上認められています。でも、日本では認められていません。これを受け入れる意味は、日本国憲法は国際法と合致していません。こいつを意味します。
世界の国々と交流する上で、国際法と合致していない事をおかしいと思う事は行けません。けれど、世界とは交流すべきです。どうして、国と国がお付き合いできるのでしょう。そして、交流が出来るのでしょう。

何か変!

あ、思い出した。この変態な状態を好む所があった。そう、世界で、アジアなこの国は右傾化しているとパッシングに燃える、もう一度書き記るしますが、世界とアジアが。

後、右傾化と一線を帰す、左巻きな人達とでも言えばいいのでしょうかね。でも、ほとんどのネジは右巻きだから、たまには、地球の公転か自転に合わせてネジを戻されてもいいのになって思います。もしかしたら、左巻きの方は、それとも変態が自然と信じていらっしゃるのでしょうかね?

ああ、変態に身を置くのは、あたしは嫌だな。
読まれた方は、変態って評価される可能性って受け入れられますか?

ね、国語って難しいでしょ。実益な部分のお話でした。
見える形で行って、あるべき姿に戻ってこそ、言葉って成立するって思うのですが・・・

国語得意になりたいな。
おしまい。

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.20更新

■2014/02/22 医療と広告って
“医療と広告?”の関係って、七面倒くさいと思う時があります。これって、感情の部分。

ま、誘引という行為を、例え「患者さん」に来てもらいたくてもやりなさんな。という事が、平たく言えばベースで、広告規制されていると言う事になるのでしょうか?病から、お金を貰うのだから、それぐらい弁えなさい。そんな感じの言い回しが適当なのでしょうか?多分、これは文化背景からきている筈。

多分、言い方としては適当でないかもしれないけれど、歯科医師の心の色を例えると、3つの顔色が現場では反映しているのかなって思う事があります。言葉にすると、こんな感じ。「医は仁術派」と、「医は算術派」と「医の前にどうしよう、でも、良い所取りはしたいな?派」

で、技術背景となると、どうなのでしょう?
多分、得てして心の色に投影される気もしますが、どうなのでしょう?広く世間を知っている訳ではないので、正直、分かりません。

唯、日本の歯科医療システムは、保険に限定するならば、こんな感じ。歯学部を卒業。ペーパーテストで国家試験をパスする。後は、生涯更新も確認も無く、平穏に、診療に勤しめる。こんなシステムです。
あたしらの時代と一つ変わった所と言えば、2年間の研修医生活がある事。そうすれば、晴れて娑婆で「一端の歯医者さん」という奴。

で、保険診療は、なりたての新米君も、超ベテランも、働き盛りも、円熟の歯科医も、同じ診療報酬での評価。平等な評価と言う価値観に基づくのでしょうか?同時に、生産性と言う観点は欠如していると思いますが、どうなのでしょう?

真面目に真剣に取り組み、技術と経験を持つ事?
真面目に算術を覚える事?
真面目に勉強を遠くに置いて、良い所取りはしたい?

こんな構図になるのでしょうか。分かりませんが。同評価なら後者二つの方が医療を真剣に行うよりも楽かもしれません。結果、勉強しない?で良い所取り、もしくは、算術医がますます増える構図。と、単純化したくなります。
どうなのでしょうか?個人としては、3割・3割・4割という数字を当てはめれば大体解決すると思っています。数字は、読み手の方が決められれば良いのではと思います。

だから、どうなの?って、のが、この先のお話。

で、歯科医の開業医が増えた側面もあるけれど、歯科医として活躍出来る得意科目のグラウンドと言うか、歯科医紹介というべきか、多分、患者さんに知ってもらいたいという抑えきれない何かが、歯科医側に出て来たとしても自然な事かもしれないなって思うのです。

ある歯科医の先生は、俺の個性と売りを知ってくれ! かもしれない。
ある歯科医の先生は、俺の考え方と、それに基づくクリニック体制を知ってくれ! かもしれない。
ある歯科医の先生は、こんな事で悩んでいる方に対して、取り組んでいますよ!って、紹介なのかもしれない。

例えば、情熱なのか真剣身なのか、そんなパッションのような物を、仮に世に出せれば、医は仁術の精神は忘れずにいられるのかもしれない。対応が出来ずに、患者さんに御足労を求めなくてもいいのかもしれない。だって、平等な評価しか受けられないなら、アピールする自由ぐらい謳歌したくなるのかも…

で、広告とは一線を帰す存在がネットの世界で醸し出せる表現なのかもしれないですね。そんな事を思ってみたりもします。

タイに行った際、広告としてフリーペーパーやチラシとしてホテルに置いてあった時、文化の違いと保険診療でない世界の姿を垣間見た気がしました。言い方を変えれば、自由診療だからこその、宣伝しなければならない現実とでも言えば良いのでしょうか?

もしかしたら、温さは宣伝できない規制がある側に存在するのかもしれません。

でも、医は仁術というこの国の精神文化を尊重する上では、宣伝は中々、受け入れられない土壌である事が必要なのかもしれませんね。

おしまい

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.19更新

■2014/02/20 総括じゃ。どうしよう?意味あるんかい!
高まる期待と、そんな期待なんぞを、あっさりとかき消す(自己)批判の繰り返しを行いながら、身体と噛み合わせの関係を追求し続けてきたのかなって、“ふと”思う事があります。これ、個人の所感。

「何で、こんな思いを…」と思ってみたり、「良かったよな…」とちょっと、嬉しさを噛みしめる経験をさせて頂いてみたり…「これだっ!」と、顔色といえば赤くなったり、青くなったり、白くなったり、黒くなってみたり…。で、心はブルーで、寝不足をお友達にして、と、何か良い思いをしたのかなって考える事もあります。

でも、何時かは何かがあるかもねって、ネクラな仏頂面を友達に、ただただ仕事に勤しむぐらいしか能が無かったのかな?

ま、心境はこれぐらいにして。ここから下は、あたしの思うブログっぽい書き方で。

線維筋痛症を発症したお医者先生がいた。過剰接触の時期があった。良いから全部削ってくれ。歯を毎週削りまくり。これでもかと、削りまくり。

咬合は上下顎の歯牙の相対的位置関係という。
意味あるのかい!

発症起点を、分かんないから、学会で話を聞く物の、原因の前の原因など聞けたらな…って、思いながら、現症とその対峙が専ら頭に残っている事。

原因不明で、どうしよう…
意味あるんかい!

頸の固有感覚と顎位の関係にあるじゃん!と、現象から何かに気が付く。
咬合は、上下顎の歯牙の相対的位置関係と言う。
繋がっていないじゃん!
意味あるんかい!

顎ずれ?で、頸の固有感覚以下に問題が出るんじゃい!と、説があるらしい。
咬合は、上下顎の歯牙の相対的位置関係という。
で、噛み合わせがおかしいのじゃ、につながるらしい。
どこが?
意味あるんかい!
舌が歯の位置関係を把握するんじゃ。お医者先生が、ある日吠える!
咬合は、上下顎の歯牙の相対的位置関係という。
で、この関係を知るには、舌がいるんじゃい!と、お医者先生が、ある日吠える!
過剰接触過ぎる関係で、身体に来る痛み、何とかなったんだども、自らの身体を呈して、舌がこの歯がどこにあるか教えてくれないんじゃい!と、吠える!

咬合は、上下顎の歯牙の相対的位置関係と言う。
この位置だと、歯が上手く触れられないとお医者先生吠える!
顎がぶれるんじゃい!
ここに歯が欲しいと吠え始める!スピーがモンソンがと、吠え始める!

噛み合わせの意味のヒントにどうやら出会ったのか?

原因の原因が、お医者先生によって、見つけられる?
で、お医者先生、この疾患に苦しむ患者、医者として見過ごせません。
治そう!歯医者集団を作りません?
先生、一緒にやりましょうよ!
“半年!これを目指しましょう。身体から***を解放しましょう”

“えっ?”

確かに良くなっている。お医者の現場に復帰もした。
さて、どうすべ?

意味あるんかい!

あたしは、仕事柄か性格か、白衣を着る仕事になってから受け身の性格に色が変わった感じ。
意味あるんかい!

原因の原因は、揃った。
でも、原因の原因の原因もあるのかも。ある景色が気になる。
更に言えば、原因の原因の原因が、まだあるのかも。
噛み合わせの為に優位な?有利な治療法とは、先人たちの残して行った歴史の組み合わせで、どうやら、尻尾を掴んだ気もしています。

なんでも、これは放射能ですか?これは、私人ですか?これは、公人ですか?(この先の表現は飽きちゃった。)と言える社畜としての義務か、本心か知らないけど、一本道で言える方ほど、多分、強くない。

さて、どうしましょう。

でも、お医者先生、言った。
いきなり逮捕がある職業です。私のライセンスは。
それは、確かにないか。あたしの歯科医の職業は?
今の所…

覚悟が無いのかな?

考えるって大変ですよね。凡人、凡人ぽい、凡人風な感覚の人間ほど。でも、考えていかないと行けないのでしょうね。もし、読まれる方がいらしたら、考える葦である事、忘れてはいませんよね。あたしも、考えるとすっか…

意味あるんかい!
でも、どうしよう?

おしまい

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.18更新

■2014/02/19 参ったな。
咬合って奴は、一つ筋縄で行かないというのが、あたしの立場。無論、「そんな事ないよ。大丈夫。」って言われる先生もおられる事と思います。

『得手・不得手』の技術論の世界と言う一面で捉えられるならば、匠に自らを変えていければ最高なのでしょうが、中々どうしてと思うのが今日この頃。

唯、歯科医が歯の治療を行う限り、偶発的なのか、必然なのか出会う筈だよなって、思う事があります。実際、どうなのか?ここに、生理学という学問を当て嵌めと景色が変わると、個人のあたしは思っていました。今も、そうですが…

生理学で、何を見つめるか?多分、そこが肝要ではないかと思っています。

過剰接触という奴と出会って、こんなに身体に影響を与えるのか?“参った。”
顎位の不安定感(この言葉に集約させます)が、こんなに身体に影響を与えるのか?”参った。“

で、咬合の定義は、上下顎の歯牙の相対的位置関係と為っている。では、この相対性の意味は?

噛み合わせって?この場合、どう考えるのだろう?

ズーット、パーツパーツを組み合わせ続けたような気がしています。どんな木なのか、その森はどんな様なのか知りたくて、仕方ないから生理学の地図を見つめ続けていたように思います。

少しずつですが、多分、自分が知りたかった、いえ、納得したかった山の頂にたどり着けたのかなって、思える今日この頃です。

臨床は決して、甘くない。
歯科医の仕事は、大工作業かもしれないけど、この大工作業がとてつもなく大きな仕事のように、納得し続けるこの頃です。

機能障害との対峙は、歯科医は多分、免れる事は無いと思う。気がつかなければ、あるいは、その必要性に出会わなければ、もしかしたら最高だけど、そんな事は無いのだろうなって、思う今日この頃です。
おしまい。

 

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.17更新

■2014/02/17 弥法と精神世界の関係?そんな大それた物でも…2
弥法と言う現象が生れるとした時、一つは物質性を根拠に出来ると触れました。一つは、精神性の世界に何かがあると触れました。

唯、精神性の世界は相当に厄介です。
例えば、患者中心の哲学。患者主体という考えに置き換わっている側面もある気がします。これが、患者さまと言う語源のベースにあるとあたし個人は思っています。

多分、患者中心と言う考えは、医療享受者と言う捉え方と流れが成立していく物と考えます。
一方、患者主体と言う考え方からは、患者さまと言う捉え方と共に、資本主義的表現なら、消費者という言い方が成立するのではないかと思います。多分、美容と言う世界でお客様と言う表現を使うのは、ここにあるのだと思います。その事実に、多分感動したのでしょう。地獄の沙汰も金次第の生き方の方が、あたし的には格好が良い分、異質な感覚を未だ覚えてしまいます。でも、こちらの方向に進むのでしょうかね。
唯、心の刺を取る・コンプレックスを取る?と言う価値観も、若返りと言う拘りも一切、否定する立場ではありません。想像出来る内容でも、身近でも無い世界故に、分からないと言うのがあたしの立ち位置です。同時に、機能性と言う見地では、肉体的変化はないのだろうかと言う野次馬レベルで興味を持っている事は、報告しておきます。どうぞ、了解を。

患者主体であれば、歯科治療の一つの基本コンセプトの、ブロック単位と言う概念は隅に追いやられ、結果、弥法になる可能性もあるでしょう。その背景や動機は割愛していますので、一方的表現になるきらいは否めませんが…

まず、大事な事は、あたしら歯科医医師の法的守備範囲という世界の整理だと思います。

歯科医療は、咬合構築に関与する行為(補綴、充填、矯正)、歯牙、顎骨・口腔粘膜・舌・口唇・唾液腺・咀嚼筋など下顔面に発生する疾患の治療。次に、全身疾患のうち口腔または下顔面に症状を現す疾患の機能回復訓練。最後に、これら複合因子(特に咬合因子)由来で全身に波及している事への解決。即ち1次因子に歯科が関わる場合、全身性への関与、こんな所になるのでしょうか?
そして、この中に医業と言う糧を手に入れていると言うのが、あたしら歯科医と従業員の生き方になります。
最後の方は、多分、はやり言葉で言いかえると、噛み合わせをコントロールして全身へ波及効果を狙うと言う表現になるのでしょうか?(表現は本当に難しい所です。)

そう考えると、美容歯科なる造語は、どこに当てはまるのだろうと妙に勘繰りたくなります。(あたしが勝手に決め付けているのかもしれませんが、造語と言う位置付けではなく、医学用語として学会等が尊重しているのならば、私の勉強不足であり、心より恐縮します。そして、反省したく思います。)

話が少し飛びましたので、補足します。生きる上では、常に社会との関わり合いを考える必要性が出てくると思います。それは、社会との関わり合いを無視して、自らが信じる価値観に押し込むようなプロパガンダ的操作も、ご自身の意見なのか、社是なのか動機は別に、扇動行為も認められるものではないと考えます。そして、社会の関わりを知るには、時間的関わり(歴史)・環境的関わり・制度的関わり等から判断していくのかなって思うのです。どうなのでしょう?

おそらく利益相反という考えを織り交ぜると、あたし自身も何を書きたいのか見えてくるのかもしれませんね。

言葉の定義から。こいつが無いと、どうにも調子が出ません。国語力が無い分、容赦を。

「利益相反」とはある人の持っている2つの異なる役割における利益がお互いに相反している状況のこと。責任ある地位に就いている者の個人的な利益と当該責任との間に生じる衝突。そんな表現になるのでしょうか?即ち、公正な判断と適正な判断が損なわれる可能性が常にある訳で、その結果・あるいは、予想として第3者から懸念が表明される事態に陥る。そんな理解が大事なのではと思います。

物事を悩む時、資本主義の本質を鑑みると良いのかなって思うようにしています。同時に、生産性という基準が適切ではないかと考えています。但し、これを医療行為に当てはめようとすると、結構、厄介ですがね。

厄介ついでに、考えがまとまりきらないので一端おしまいです。

おしまい。

投稿者: こすが歯科医院

2014.02.15更新

■2014/02/15 弥法と言う捉え方から見える世界?1
“弥法と言う捉え方から、治療を見ると…”てな、感じの話に展開が進んできました。取り立てて、テーマを決めている訳でもないのですが、何かが整理出来そうで、ちょっと、良いかもて感覚で書いています。

ところで、医療と言う治療行為における人間のつながりという関係性では、大きく分けて二つの考え方があるようです。一つは、ドクターが主導して患者の治療内容を決める物。一つは、患者が考え判断し決める物。

前者に関して加筆すると、今はおそらく流行りでないと思います。後者は、セカンドからサードオピニオンというぐらい患者が悩んで決めればよいと言う捉え方になるのでしょうか?患者主体と言うのでしょう。

言い方を変えれば前者は患者の考える枠など無い治療姿勢。後者は患者が考えなければ始まらない治療姿勢と成るのでしょうか?どちらが良いのでしょうね?

併せて、治療における時代は、同時に1歯単位の治療形式から、ブロック治療という治療姿勢に考え方がシフトをしていきます。

ま、要約すると、悪い所あるいは、患者が気にしている所以外は、手をつけない。そんな形式を主にするという事になるのでしょうか?

その一方でブロックは、口腔内をブロックの単位に分けて、1ブロックが終えるまでは、緊急回避処置として以外は、次に手をつけないという考え方になる訳です。

さて、ここに弥法という捉え方を入れて見たく思います。
多分です。これは、あたしの勝手な人間観察学からと認識すると…
術者主導の場合、患者は結果など分からなくて良いから、大きく分けて二つの結果の層に分かれるのではないかと思うのです。
1、 芸術の域まで昇華した結果。いわゆる、匠の世界
2、 昔の流行り言葉でないですが、“ダメだ、こりゃあ。”
匠の域の先生に出会ってお任せしようとする確率と、“ダメだ、こりゃあ。”の域の先生に出会ってお任せしようとする確率は、どちらに有利なのでしょうか?そして、結果が、弥法が起こる確率はどちらなのでしょうか?
で、匠って表現するのは簡単だけれど、治療自体が時の進みで進歩した結果、より複雑になっていく限りでは、これはこれで調子悪いよなって、思う時もあります。何をされているか分からない中では、患者も匠の前にいつまでも立ち続けるって、実際可能なのだろうか?そんな事を考えるのです。

比較する事自体が、陳腐なのでしょうが、「匠」と、“ダメだ、こりゃあ。”で、弥法になる確率は?となっても、そこには様々な設定条件を渡さないと一概に、こうであるとは言えない気すらしています。難しいのだろうな…

患者主体の場合、とても患者優位と感じる表現ですが、一概にそうはいえないのではないかと思える次第です。即ち、実は、術者の側にとても大きな役割がある気がします。患者が判断する上でも、とても大事な何かに術者自身が関わっているとでも言えば良いのでしょうか…
ですから、逆に、この患者主体も、見方を変えれば、これはこれで難しいのかもしれないと思うようになってもいます。この主体性と言う言葉に、実は、曲者があるのではないかとこの頃思う様にもなっています。患者主体が適正な表現と思う側にいます。これは、気が向いたら触れてみたく思います。

患者判断次第で、中途半端に終わると言う事は無いのだろうか?そんな事を考えたりもします。患者任せがある程度許されるという考えはありでしょう。
でも、全体的な構成は、患者には出来ないという事実を置き去りには出来ないとも思えるのです。

捨て去る事も、置き去りにも出来ない当り前の事実。それは、患者にはグランドデザインが描けない事。ここに患者主体の越せない壁があるのでしょう。

その前提で、用意された手法の一つにインフォームドコンセントがあるのでしょうか。

先に材料学の話から見える世界の価値観の差を触れてみました。この価値観での弥法に関しては、実は単純に説明が出来る側面が多いように考えています。これは、物質的側面を主体に触れれば良いからだと思います。

ところが、治療体系を支える思想と言えば良いのでしょうか。多分、小難しい言葉を用いるならば、倫理的妥当性と、社会的許容性等を絡めた結果起こり得る弥法の現象は、とても難しい世界だと思うのです。多分、精神性の世界観が主体になるからなのでしょうね。そんな事を思います。
ただ、読み返すと、“ダメだ、こりゃあ。”そんな感じです。国語力が無いよな…反省。

今回はここまで。
おしまい。

投稿者: こすが歯科医院

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