じっくりと事を進め、急がず、確実に。これが当院のスタンスです。
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2014.12.04更新

補綴を含め、計2年弱(2年かかってはいないです)
のんびりと、平均すれば、月1~2回関わらせていただきました。

 メインテンスでの考え方を一つ入れてみます。
歯周組織や、歯牙組織のメインテナンスは、実際の所、多くの先生と何ら変わりないオーソドックスなものと思っております。

一個、違うのは、咬合と言う世界でのチェックを入れていることでは無いでしょうか?

では、咬合と言う世界のチェックは、何を行うの?
そんな事を、疑問に感じたりしませんか?
実は、私自身、結構、悩んでおりました。
当時の疑問です。
毎回、歯のあたりを見て、毎回毎回、削るのだろうか?
毎回、毎回、顎の動きを検査して、異常があるか否か確認していくのだろうか?
等々

まさに、ミスター疑問です。
ここで、考えるべきと私自身が、思う事は、咬合を構成する因子、咬合に関連して起こる機能性の因子、咬合に影響を及ぼす可能性のある関連因子等々を、まずは、整理すべきではないかと言う事です。

噛み合わせの調整や、噛み合わせと言う言葉だけが独り歩きしていて、実際、そこに対する共通認識と言うものが、無いような気がするのです。患者自身もそうかもしれませんし、ドクター自身もそうなのかもしれません。
難しいですよね…
基準があるものと、一見、無いものがもし、歯科治療にあって、噛み合わせと言う世界は、その基準が、一見無いように思われる存在だとしたら…
あまりに、確認すべき基準が多くて、そのくせ、基準を瞬間的に見定める必要性があるとしたら…
もし、あまりに多いもので、結果、気付く事も出来ないものであれば…
言い方を変えれば、多すぎて立ち向かうには、相当に大変なものであるとしたら…

と、意味深になっても仕方ないので、さて、どう考えて行きましょうか?

『咬合』と言う世界でのチェックとは?

二つの考え方を入れておきます。
感染症が主体で(虫歯、歯周病)次に、歯が駄目になる。被せる(補綴)行為へ移行して、次に、欠損補綴になる。部分入れ歯から、総義歯へと移行する。
どこかのページで、デンタルサイクルと言う形で、表現させていただいたかと思います。

一個、一個の問題を、どのようなパーツを使い、どのような技術を使い、再度、再構築するか、そんな所が、主体で、歯科学は、成立してきたように思います。
この作業は決して、否定できるものではありませんし、その数々の研究業績により、歯科界が成長してきた側面は否めないとも思います。
言い方をかえれば、情報を細かく、細かく切り刻んで、(今の研究はさらに細かく切り刻んで、もっと、知ろうと言うエネルギーなのかなって思う時もあります)あたかも、微分の世界から、本質に近づいていこうという考え方なのかなって思うのです。では、その本質足る大きな幹の捉え方が、本来より小さければ、実際の所、どういう風に捉えて、切り刻めるのかなって、くだらないかもしれませんが、逆に不思議に思う事もあります。

ですが、ふと、疑問に思う事もあります。
もう、とっくに受験から離れ、(せいぜい、大学受験時期だけでしたが。高校は一応新御三家と言う、進学校で、苦戦した当時の記憶しかありません)既に、門外漢どころか、ど素人でしかないですが、積分と言う捉え方も、同時に入れていかなければ、いけないのでは、と思うのです。

細い情報を、つなぎ合わせて、紡いで、その本質に近づく作業もいるのではないかと思うのです。

咬合と言う世界も、噛み合わせの世界も、いえ、もしかしたら、顎関節症と称す物も、実は、この積分と言う作業を行わずして成立する事はないような気がするのです。

70年代から80年代にかけて、ナソロジーという考え方が一世を風靡した時代がありました。今は古いという言葉で解決されておりますが、その中で、見つかった数々の業績、全てが否定されるものでもないと思うのです。古い=否定と言う風潮からか、咬合を語る書物も絶版の憂き目にあっておりますし、歯科医自身が、その情報を手に入れる事が、逆に困難にすらなって来ている時代なのかなって思う事すらあります。つまり、咬合の言葉の意味すらまともに知らない可能性がある、そんな所に行き着く可能性すらあるのかもしれません。

色々な目的がナソロジーの学問では、当然ながら存在したのでしょうが、その一つは、補綴で、あるいは、問題のない天然歯牙の咬合調整に、その一つの目的があったようにも思われます。

その目的は、デンタルサイクルからの離脱と言う考え方も、当然、あったと、私は思います。

何故、上手にいかないと思われるか、他人任せではなく臨床家が、自分なりにでも、まずは、構わないと思うのです。その検証なしに、否定と言うエネルギーは、(ナソロジーは古い)時に危険のような気がします。ナソロジーから生まれた、咬合学用語があまりにも多く、現実に至るまで、使われている限り、その知るなり、検証するなりの作業は、おろそかにはしてはいけない気がするのです。
(ナソロジーと言う学問は、いまも当然ながらあります。唯、昔から使われている用語等の語源等を会得する方法が、無くなって来ています。そして、同時に、言葉の解釈と言いますか。考え方も変化してきております。その考え方から派生して、生まれた用語を使わなければ-別の言葉に置き換えられていない以上-咬合は語るに落ちると言った事になるような気がします。)

私が、このナソロジーと言う学問で、一つ附に落ちないと思った点があるとすれば、微分の世界の追求に走り過ぎる事となり、積分と言う世界がおろそかになっている点が、ないのかと、思い至る所にあります。私自身、ナソロジーと言う学問を臨床に生かしている部分もたくさんありますし、そうではない見地に立って、治療している側面もあります。

ただ、そのナソロジーの世界の理解もなしに、咬合を語る事も噛み合わせを語る事も、時には大いなる疑問を感じる事もあります。知らない世界を、言い方を変えれば、知らない言葉、解釈を、知らない中で、否定的に走る可能性を持つ事は、如何なものかと思う時もあります。言うなれば、言葉でもいいでしょう、現象でもいいでしょう、まるで、中世の魔女狩りみたく、知りもしないうちから、何かを決めつけて行くような風潮は、例え、個人のHPでも、考えて欲しく思います。

発生した言語のルーツの分析なしに、知識も無しに、お題目を唱えている作業は、やはり、疑問を感じざるを得ません。具体的にはこんなフレーズかもしれません。
噛み合わせと顎関節症は***
噛み合わせを***
センセーショナルは、センセーショナル
夕刊紙の見出しと同等なセンセーショナル性には、時として寂しく思う事があります。
本質は、実は、ありきたりとか、逆に、地味なんて、思うのですが、いかが?

近年のナソロジーの考え方には、顎関節症は筋骨格的疾患と言う捉え方が主流になってきております。

また、一時、確かに、咬合調整で、顎関節症所見が、一過性で解放されたという所見報告もあります。

咬合と言う世界を顎関節症と言う特化した世界でみてみても、噛み合わせと顎関節症において、直接的関係性はない。しかし、咬合関係と顎位(関節の位置を含め)その関係は認めざるを得ない。矛盾したような、判ったような、分からないような言い方ではあるかもしれませんが…

そして ***(ここから先は、また気が向いた時に書こうかと思います)

このトピックは、今回はここまでとしたいと思います。
勉強をしている歯科医であれば、別に目新しい事でもないと思います。当り前のように、面白い世界を見出されるとおもいます。勉強不足と笑われるかもしれません。しかし、もしかしたら、患者になるあなたにも、幸せな世界を提供できるかもしれません。でも、知っているふりをしていて、実は、学問を知らない歯医者にとっては、ちょっと難解な文面かもしれません。好きな先生があなたの先生であれば、結構、盛り上がるかもしれません。<(_ _)>



ここで紹介している、顎位、高径、平面、歯の顔、アーチ等々は、少なくとも、ナソロジーと言う学問で、積み上げられた歯科医が理解すべき、基礎用語にしか過ぎないと思っております。

噛み合わせと言うと、言葉通り、歯の当たり方をイメージする方が多いと思います。基本的は、この理解で良いと思います。
ところで、一つの疑問を一緒に考えていただきたく思います。

ここで、一旦お終いとします。

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投稿者: こすが歯科医院

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